2012年4月11日水曜日

婚礼の歴史


婚礼の歴史

 このページはこれまでの婚姻の歴史を振り返るなかから、これからの婚礼の文化を考えるために設けました。ながいあいだ現業で仕事をしてきましたが、不都合と思えるものや根拠がないと思えるものを改革しようとしても、目に見えない抵抗にあってきました。それは、今の実態を明らかにするものがないために、不安があるからだと思いました。そこで、色々と調べてみると、現在の結婚式は明治時代に作られたもの、そして、キリスト教の影響を受けていること、経済成長と戦後民主主義の波に乗ってブームになったことなどがわかりました。それが、いまや生活風俗として定着してきたため、変えようとしてもうまくいかないようになったものと考えられます。そこで、私たちが後生大事に伝統のように守ろうとしているものは� ��んなものですよと明らかにします。目的は冒頭で述べましたように、不都合なことを改革するためのものです。是非、利用者のためにも日本の文化にも不都合と思えるものは勇気をもって改革して欲しいものです.そのためにお役立て下さい。

神前結婚式のできるまで

 神前結婚式が日本の伝統的なものという解釈をしている人がいますが、決してそうではありません。伝統的という言葉の解釈にもよりますが、江戸時代まではなかったものだということです。
 結婚式をするといえば、挙式と披露宴を含めて表現することが一般的だと思います。しかし、今行なわれているような挙式も披露宴も明治以前にはなかったこと、そして新しく作られたものであることを知っておくことが大切だと思います。
 特に、結婚式に携わっていながら、そのようなことを知らない人が多いため、伝統を後生大事に守らなければいけないと思っている人も多いようです。また、その誕生の経緯が明らかにされていないため、不満を感じながらも結婚式を行ってきた人も多いと思います。
 そこで、あいまいに� ��っている神前結婚式の誕生について明らかにしていきます。

大正天皇のご成婚

 1900(明治33)年に大正天皇が皇太子時代今のような神前結婚式の形式で挙式しました。このことは一部の関係者には理解されていることです。
 しかし、何故そのようなことになったのかはあきらかにされていません。けれども、キリスト教の司式の形式を参考にして作られたことは、最近公然と語られるようになりました。明治、大正、昭和のなかばまでの時代には、大正天皇の結婚式はキリスト教の真似をして行なった。と、いうような言動はできなかった事情もあるでしょうが、そのようなことは公式に語られていません。そのため、皇室の行事として行なわれていますから、日本の皇室に伝えれれる婚姻の儀式として解釈されてもおかしくありません。日本の伝統と印象付けることが目的だとしたら、これは大成功したキャ� �ペーンといえます。
 現に、これまで大半の日本人が、伝統に則って神前結婚式で挙式をしてきたではありませんか。日本のそれまでの慣習はどうだったのか。その慣習では何故いけなかったのか。神前結婚式が誕生するまでの問題点を整理してみたいと思います。


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挙式がなく、ふしだらな国「日本」

 [フロイスの日本覚書」(中公新書)という本は、16世紀布教のために日本を訪れた宣教師が本国スペインに送った書簡です。そのなかに、日本人の倫理観や結婚に関する特徴を述べています。
 ヨーロッパの観衆から見ると、日本人は結婚をするときに神の許しを得ていない。何人とでも結婚できる人もいる。離婚が簡単にでき、離婚しても再婚の妨げにならない、などとかいてあります。
 専門家でもない私たちが目にすることのできる数少ない資料といえます。当時の風俗を知ることはなかなかできにくいものです。しかし、日本人にとって気にならないことでも、価値観の異なる外国人の印象は非常に参考になります。
 当時のヨーロッパでは成人男女が夫婦になるときは、教会で神の許しを得て結婚式を挙げていま� �た。しかも、一度結婚したら、離婚することは難しかったのです。そのヨーロッパに較べると上記のように見えたのだと思います。これは、フロイスの書簡と同じように、ヨーロッパ人がそのように感じていたと思って間違いありません。16世紀から19世紀になっても慣習は変わらないままの状態でした。
 近年になっての神前結婚式は、フロイスの感じたおかしな日本の結婚の慣習を改め、近代化の名目のもとに、当時世界文化の覇者であったキリスト教の結婚式を真似るような形で完成されたものです。

日本の婚姻の儀式

 では、ヨーロッパの人々から見ておかしな結婚とはどんなものだったのでしょうか。彼らは、日常生活の中に宗教が溶け込み、あらゆる場面で生活を規制しています。日常生活の始まりから床につくまで。人生では、誕生から死に至まで宗教=神の干渉を受けています。従って、神の許しを得ない結婚など考えられません。
 しかし、日本ではそのような感覚はありません。ヨーロッパの人達が許しを得ようとしたような「神」がいなかったのです。したがって、許しを得るような必要など微塵も感じませんでした。いまの披露宴にあたる宴会の中で、杯を交わすことが儀式といえば儀式といえるものでした。ヨーロッパと比較して、挙式にあたる部分は存在していませんでした。

武士の婚姻 嫁入り婚

 武士階級と一般庶民とは区別して考える必要があります。このことを混同して議論すると、問題が見えなくなってしまいます。身分制度の厳しかった時代です。武士と一般庶民では、生活慣習が異なります。
 武士は人口構成比で言えば全体の六lですが、現在の婚姻の文化に与えている影響を与えています。武士の礼法が基本になっています。武士の階級では「家」を継承するために婚姻を結びます。男子でなければ家督を相続できませんから、男子が生まれるまで子供を産みます。一人の女性では嫡子を確保するのに不安がありますから、複数の女性を側室として抱えます。それは家を守るための防衛手段です。フロイスがおかしな結婚と指摘した結婚のひとつは、このような武士の多妻婚だったのです。武士以外にも裕福な人達� ��家を守るために側室を持つことが普通でした。
 あとで説明しますが、武士は「嫁入り」という婚姻の形式をとっていました。これは、女性が男性の家に嫁ぐもので現在と同じよう処女に近い形(一般常民は、既に男女間の性交があり子供があって嫁入りをしていたのと比較して。)のものです。
 武士の婚姻のしきたりを定めたものに、小笠原礼法というものがあります。これは室町時代から武士の家を守るためのおつきあいのマニュアルという性質のものです。身分の高い武士同士の縁組は遠方からのものが多くなります。両家を取り持ち、さまざまな問題を調整するために仲人の制度もありました。


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平民(一般常民)の結婚 婿入り婚

 柳田国男の「明治大正史」によると,明治のはじめまでは、一般庶民は「婿入り婚」が多かったとかかれています。婿入り婚とは,男性が女性の家に通う形式です。一定期間,妻となる女性の家に通います。そして男性の家に 「嫁入り」するのは,男性の母親が家事の一切の権利を譲るときです。従って,読み入りまでに長い時間がかかることが多かったようで,当然何人かの子供を連れての嫁入りも珍しくありません。婿入りは,一定のルールの下に女性の家を訪ねます。女性は拒否することもできます。おおらかな環境だったようで、現在のわれわれの価値観では理解しにくい面が多いと思います。丁度,16世紀にフロイスが感じとものと同じような印象を私たちも当時の慣習に抱いてしまいがちです。
 お互いの気持が合意に達すれば,男性が通うようになります。従って,お互いに歩いて通えるような距離にすむ間柄で,村内婚とも呼ばれていました。

江戸時代の婚姻の儀式

 整理しますと、江戸時代の神前結婚式の原型のような挙式は見当たりません。武士は現在と同じような[嫁入り婚」を行なっていましたが,庶民は[婿入り婚」という形式がおおかったようです。
 結納を行なうこと,仲人を立てることは武士の間の慣習に過ぎませんでした。庶民は嫁入りのとき,親戚縁者を招いて祝宴を開いていました。既に,子沢山の状態で子連れ結婚ですから、処女の女性が嫁ぐというような雰囲気の儀式はなく,女性が家事の権限を譲渡されるお披露目の儀式でした。まだ、神前結婚式の原型になるような目のようなものは江戸時代にはありませんでした。このころは,処女に近い形で嫁入りをしなければ恥ずかしいという感覚はありません。それよりも、子宝に恵まれること,つまり、産まず女でないことのほうが� ��要でした。
 婚姻の形態として,婿入り、足入れ、嫁入りのように変化しています。いまの婚姻の形態は嫁入りです。明治になるまでは、武士だけが嫁入りだったのですが,大正、昭和の時代を経て、身分制度がなくなるとほとんどが武士のような嫁入りになったということです。武士のような嫁入りとは、女性が処女に近い状態で嫁に行く,あるいは,子連れでない状態で嫁にいくということです。


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明治の婚姻政策

 江戸時代までは、挙式という儀式はなかったこと。また、嫁入りもいまのように処女に近い形で嫁ぐということは,武士にしかありませんでした。神前結婚式と披露宴のセットは存在していなかったことになります。
 その原型は,明治の後半から現れ始めます。その前に何故,そのようなことになっていくのかということを述べます。明治維新というのは、ヨーロッパ列強と比較して遅れた文明の差を取り戻すことでした。そこで、その差はどうして生まれたのかを研究します。有名な岩倉米欧使節団というプロジェクトが世界を回りその報告をします。
 その結論が、教育を充実すること、宗教を持つことになります。特に建国百年で母国よりも優れた文明を持つようになったアメリカの様子を見て,そのような結論が出されたよ� �です。そこで教育制度が生まれ,国家神道がつくられます。後者の国家神道と問題にしてきた婚姻制度は密接にかかわります。
 明治政府は、日本をアメリカのように物質文明の恵まれた国にしようと考えました。その政策を遂行するのに,国内にあった半主流派,徳川幕府を支えたものや,その時代にこだわる考え方を、弾劾していきます。仏教に対する廃仏毀釈、徳川家の菩提寺である増上寺の焼却、京都の家元の無力化などがあげられます。
 そのような時代背景のなかで、国家神道が生まれ、神前結婚式が生まれます。日本の歴史や文化を継承するということでなく、列強に追いつくための政策と、旧体制の影響力を排除し文明開化が効率よく推進するためのさまざまな政策を展開するのですが、神前結婚式はそのような中で生� ��れています。
 また、「婚姻法」が制定され、一夫一婦制が導入され、側室をもつことが禁じられますが、形の上だけだ守られてはいませんでした。天皇家でも、側室をもたなくなったのは昭和天皇からだそうです。明治大正の政治家は憲法の制定はするが、「婚姻法」を守らず側室を持つことが男の甲斐性のように考え行動した人が多かったようです。
 自分たちが守れないことであっても、ヨーロッパから見て野蛮人と見られない体裁を整えることに汲々としていたといえると思います。その好例が、婚姻法の制定であり、神前結婚式の考案だったといってもいいでしょう。参考までに、プロシャの外交顧問だった人が、当時の最高権力者伊藤博文が余りにも自国の文化や伝統を否定し、ヨーロッパのものを一方的に導入しす� ��るので行き過ぎを諌めたそうです。例えば、外交の場で着物を禁じたとき,着物は日本の芸術であり作法の原点でもあり国際的にも通用する文化だと。しかし、着物を公式の場から追放することや、公式の場での料理は洋食正餐と定めたのです。これが,鹿鳴館文化へとつながっていきます。


神前結婚式はなぜ作られたか

 神前結婚式が作られた理由を解説している文献は皆無といってよいくらいありません。それよりも,過った解説をしているものが多くあります。例えば、戦後ベストセラーになり,結婚式を行うときのバイブルのようになった「冠婚葬祭入門」は神前結婚式は日本の伝統のように書いています。その他の結婚式に関する本も大半が同じような解説をしています。しかし,伝統的でないことは既に述べました。では何故必要だったのかということです。
 フロイスの日本覚書で紹介しましたように、ヨーロッパの価値観、すなわち当時のキリスト教の倫理観から見ると日本の婚姻の形や、支配層の一夫多妻制、また、性風俗は野蛮国そのものでした。特に白人から見た有色人種は、同じ人間の仲間と見られていない時代でした。そんななか� �,有色人種でありながらヨーロッパの仲間入りをしようとすれば形の上でも、性に関する文化性でを改めるしかなかったのです。そのために,キリスト教的な考え方を導入し夫婦になる際して、"神の許しを得る儀式"を行なうことにしたのです。神前結婚式とは,神の許しを得る儀式に他ならないのです。その儀式を行なうために、神道という宗教,そして,司祭者としての神主,音楽としての雅楽が取り入れられてデビューすることになったわけです。
 当時の考え方でいえば、神道の最高権威は天皇陛下です。その嫡子の司式を誰が行なったのか知りませんが、最高権威者が許しを得る儀式を行なうことは矛盾しています。しかし企画者である明治政府にとっては、パブリシティ効果としては最高でした。神前結婚式は、皇室の行事とし� ��報道されるのですから、古くからの皇室の行事のような印象を生むことにもなります。様々な解説書に,神前結婚式は大正天皇が始めて行なった,と記されています。しかし、古くからの行事のような書き方がされています。


神前結婚式と披露宴の成立

   明治時代のエリートたちは、ヨーロッパの文明文化を率先して受け入れるためにパーティでのマナーや社交の技術を訓練されます。昨日までちょん髷を結っていた状態から、ザンギリ頭と洋服になり、肉を食べ始めるわけです。鹿鳴館時代といわれる状態が象徴しているように、エリートたちはダンスに食事会に明け暮れることになります。
 「坂の上の雲」にあるように、明治のエリートは地方から東京に集まった人たちが多く、ふるさとで婚礼を行なうことがなくなります。そこでヨーロッパ形式のパーティと練習の成果を兼ねて洋食正餐の披露宴を行ないます。それが、都市ホテルの結婚式の原型です。しかし、明治時代には神前結婚式はそれほど普及していなかったようで、披露宴が主体であったようです。披露宴を洋食正� �で行なうことが定着したといえます。
 今と違って、都市ホテルを利用できるのは社会のほんの一部のエリートでしかありませんでした。エリートと一般国民との関係は戦後まで続きます。結婚式に関しても、いまの原型が誕生するのは明治時代ですが、一般国民の間では古いスタイルの披露宴を主体に戦後まで行なわれていました。
 終戦後、経済成長が軌道に乗り出したころ、東京オリンピックが開催されます。国力を挙げてアジアで始めての東京オリンピックが行なわれました。このころから、国民の生活も豊かになり、明治から戦後まで苦労を重ねてきた人々にとって豊かな生活をエンジョイできるゆとりが生まれてきました。エリートの行なっていた結婚式を子供のために実現してあげることができるようになったので� �。明治のエリートが地方から都会に出て文明開化を支えたように、戦後の経済復興も地方出身者が支えていました。時代が変わっても、同じような状況です。しかし、異なっていたのは小数のエリートであったのに対し、中流意識をもつ大衆の増えていたことです。
 明治のエリートは、ヨーロッパの礼儀作法を訓練を受けて学び、もてなしの作法としては小笠原礼法を身につけていました。明治の披露宴の目に見えない部分は小笠原礼法によるところが多いのです。特に、招待する側もされる側もそん作法をわきまえていたのです。利用する側が自分たちの考えでつくったのです。この認識がないことがその後の都市ホテルの運営をおかしくしているのですが、別のところで触れます。
 戦後生まれた大衆社会の結婚当事者も親� �エリートの結婚式にあこがれるのですが、その内容を理解していませんから、会場の担当者に聞いたり、ハウツウものの書物で知識を得ることになります。そこで必要にされたのが有名な「冠婚葬祭入門」です。700万部といわれていますからものすごい記録です。何故そんなに売れたかといえば、それを読まなければ困るから。つまり、日本人でありながら、一般の日本人に理解できない結婚式を行っていたということになるわけです。かつての社会では地域や親戚の世話役的な人が采配を振るっていた婚礼という日本の風習を、ホテルが取り仕切るようになったといえます。そのような結婚産業の草創期が昭和四十年代です。エリートの文化を自分たちも、都会の結婚式を私たちにも,と言う形で結婚式は地方都市にまで浸透してい� �ます。
 神前結婚式と披露宴のセットはその原型が明治に生まれ、エリートが都市ホテルで行なったもので、大正昭和と暗い時代のあと明るい社会が見え始めたころ普及することになったわけです。 


ブライダル産業の成立と成長

 東京オリンピックのころ、大都市には設備の充実したバンケットホールを持つホテルがたくさんありましたが、地方には大人数で披露宴を行なえる施設がありませんでした。昭和四十年代から神前結婚式と披露宴のセットが日本の結婚の理想的なスタイルのようになっていきます。地方においてもそのようなスタイルを求める空気が多くなってきます。
 そのような雰囲気に最初に応えようとしたのが、自治体を中心にした公共会館でした。次に,冠婚葬祭互助会という組織が多くの施設をチェーン化していきます。次に専門式場が誕生します。これらの施設は人口規模などに応じて全国に作られていきます。しかし、社会的に需要があるからという理由で施設の建設を進めて行ったのですが、どのように運営していくのかとなると,よ く分かりませんから、経験者を採用して管理者にしていきます。都市ホテルで結婚式の仕事に携わった人たちが,地方の施設のトラバーユしていく時代です。この時代がブライダル産業の成長期です。



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